事件告発活動・無念の断念・号泣
前回は、現実の世界、インターネット上で「不可視」になるために様々な対策を講じて、 満を持して海外メディアに告発・情報提供をしても、ただの1件の反応もなかったことをお話ししました。2016年4月以降、3年半の長きに渡って、書籍を中心に、海外サイトで様々な情報を入手して自分のものにして、 これ以上、もう対策できないというほどに練り上げた上での作戦決行であったたけに、 それが不発に終わった時の無力感と徒労感は測り知れないものでした。 私は絶望に打ちひしがれました。
今回はその話をしたいと思います。
事件告発活動・無念の断念・号泣
そもそもこの事件は最初のPCI(冠動脈カテーテルインターベンション:術者:岩井利之医師)中の大事故を医師らが隠蔽し、 私たち家族に嘘で塗り固めた説明をして看取らせようとして回復不能の状態の陥り、 最後は頭部打撲によって死亡したという病院内の事件としては前代未聞の大事件です。そして、管轄の取手警察署の警察官(刑事第一課長・沢村紀行警部)が、「司法解剖が行われた」と嘘の報告をしたり、 偽の「死体検案書」を私たち家族に渡したり、「死亡届」の記入に必要な情報を私たち家族から電話で聞き出すなど、 その後の隠蔽工作に奔走し、私たちが訪問する弁護士を「入れ替える」など、 この事件が絶対に明るみに出ないように、取手協同病院側が事前工作しているという恐るべき大事件です。 これらを行うには我が国最高レベルの技術と権限を持つことを考えると、これは取手協同病院という一民間病院の手を離れて、 国家機関が行っているとしか考えられない状況です(これはAI:ChatGPT, Google Geminiともに同様の認識です)。
その一方で、「証拠保全」では、病院のリスクマネージャーは「我々は事故とは認識していませんので」 と平然とした顔で言っていました。 しかしそれが嘘であることは、その後の彼らの隠蔽工作が徹底していることから、分かり切ったことで、 病院側の発言は嘘で塗り固められています。
私は、善意に基づいた医療を行わず、ほとんど故意とも言える経過で父を死に至らせた医師らも許せませんでしたが、 その後の取手協同病院の狡猾で卑怯なやり方に対しても、到底許すことができません。 その「怒り」が私をここまで突き動かす一番の原動力、エネルギーになっていました。
「あんたら、「事故とは認識していない」と言っていただろう。それならこんな卑怯なやり方で 事実が明るみに出るのを止めることなどしないで、その事実を公にして、正々堂々と法廷で争えよ」 と私は心の中で、取手協同病院に訴え続けました。
しかし私がいくら声を上げても、弁護士もマスコミもただの1件の例外もなく、皆が皆、相手にもしてくれない、 見向きもしてくれない、皆が皆、示し合わせたように無反応・・・ 「この世の中は、こんなにも冷酷非情なものなのか、私のことを、被害者のことを救ってあげよう、 手を差し伸べてあげようと振り向いてくれる心優しい人が、たったの1人もいないのか、 民主主義の国、日本では正義が勝つのではなかったのか」と私は、天を仰ぎ、涙しました。
「もうダメだ。いくらやってもダメだ。この国は、なんてひどい国だろう。 そしてこの世界は、なんてひどい世界だろう。こんなにも悲しく悔しい思いをしている1人の人間を、 誰も救おうとはしてくれないなんて、あんまりじゃないか。」
私は男泣きに泣きました。そして、父の許しを請うべく、亡き父の墓前に行きました。
「お父さん、無念だっただろう。あんな死に方をして。 俺は何としても、奴らを成敗してやる、仇を討ってやると、あの時、誓った。 俺は頑張った。死ぬほど頑張った。9年間、そのことだけを考えて生きてきた。 俺にこんなにもエネルギーがあったのかと思うくらい、 この9年間、そのことだけに全精力を注いできた。 でも俺のことを助けてくれる正義感溢れる人には誰にも巡り合えなかった。 誰も見て見ぬふりだ。 いくらやっても結果は同じだ。誰も助けてくれない。 もうこれ以上やっても結果は同じだ。もう無理だ。限界だ・・・ 俺はこの国は、もっと良い国だと思っていた。正義は勝ち、悪者は然るべき社会的制裁を受ける、 そういう国だと思っていた。でもそれは単なる幻想だった。俺の思い込みだった。 本当に悔しくて血の涙が出そうなくらいだけど、ここまで頑張ってダメなのだから、 もうこれ以上はやりようがないということだと思ったんだ。どうか、許してくれ・・・」
私はそう言って、父の墓前に手を合わせ、血の涙を流しました。 こんなに悔しく悲しい思いをしたことは、後にも先にも一度もありませんでした。
父の墓石の隙間から、1匹のアマガエルが出てきました。こちらを向いていました。
「お父さんは、カエルだった。カエルの解剖だった。 最初のPCIの治療であれだけの事故が集中的に起こっていたのは、 ちゃんとやろうという気持ちが初めからなかったということだ。練習台だったということだ。 こんな死に方をしたのは、この文明国・日本では、お父さんくらいのものだ」
私は、こんなひどい医師を成敗できなかった悔しさで目が血走り、腸が煮えくり返りました。 しかし私にはどうすることもできませんでした。
時は2019年末となり、この時点で事件発生から9年以上が経過していました。
ところで私は少年時代以降、その時に至るまで、ピアノ一筋に生きてきたと言っても過言ではないほどの ピアノマニアでしたし、実際「ショパン演奏」というサイトでは、2010年8月までは 曲目ラインナップを増やすべく、意欲的に練習に取り組んできました。 最後に公開したショパンのピアノソナタ第3番の第4楽章は、父が心筋梗塞を起こす直前の 2010年8月21日に録音、公開したものでした。ちょうど夏休みであったこともあり、 私はピアノに熱中していたわけです。
しかし父の心筋梗塞発症、その後の急激な病状悪化は、私のピアノ一筋の生活を一変させてしまいました。 それ以降、私の生活の中心はピアノからこの事件へと移っていくことになり、 最終的にはピアノも9年間、ほとんど封印した状態で、 勉学、仕事のことを除けば、この事件のことだけを考えて生きてきたと言っても過言ではありませんでした。
しかしその私の思いや努力をあざ笑うかのように、何事も起こりませんでした。 様々は方法を試して全てが失敗に終わったこの時点で、私は事件解決に向けて進み出すには、これ以上、何をどうすればよいのか、 全く思い浮かばない状態となりました。
この事件について、周囲の医師、その他、コメディカルなどの知人に話すというのは、 最も「危険な」方法と考えられることは、このホームページの冒頭でも説明した通りです。 横断幕を作って町の中で拡声器でこの事件のことについて話したとしても、ただの頭のおかしい人と思われるだけで、 誰も足を止めて聞いてくれないであろうことは、初めから分かっています。 告発サイトを立ち上げることも一瞬、頭をよぎりましたが、「それはない」と直感的に感じ、検討すらしませんでした。
取手協同病院の裏組織は私たち家族の前に一瞬たりともその生の姿を現したことはありませんが、 あらゆる手段を使って、私たちを24時間マークしているという事実は、様々な状況から明らかです。 いわば私たち家族は網の中に閉じ込められた魚で、彼らの監視なしにその網の外の人との交信ができない状態です。 事件解決に向けた活動に関しては、私たちは手足をもぎ取られたも同然の状態でした。 これでは、何事も上手く行くはずがありません。
事件発生から9年間、これまで様々なことを試してきましたが、最終的には事件を明るみに出すという目標に向けて 1ミリも前進しませんでした。この鉄壁の防御を打ち破るのは不可能であるか、 あるいはその方法を模索するとしても、それから相当の年月を要するのではないかと考えました。
「ここで諦めてしまえば、ここまでの努力は全て無駄になる」とも考えましたし、 このような考え方は「サンクコストバイアス」と呼ばれるものですが、 これから頑張っても成功するという保証はなく、下手をすれば一生を棒に振る可能性もあると考えました。 「損得」を考えれば、サンクコストバイアスにとらわれず、ここは思い切った「損切り」とした方が、 私の今後の人生の「幸せ」の総和は、より大きくなるとも考え、ここが「見切り時」ではないかと考えました。
私にはこの9年間、ピアノ以外に完全に棚上げにしてきたことがもう1つあります。 それに向けて、私は遅まきながら、婚活を開始することにしました。
結婚して地元にクリニックを開業する準備を始めようと本格的に考え始めたわけです。 しかしその婚活で思わぬ事件が起こってしまいました。
次はそのことについてお話ししたいと思います。
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